姚興、字を子略。姚萇の長男。
テイ族としばしば並称される羌族は、確かにテイ族と文化・風習などよく似ていて居住地も近しいんですけど、羌族は牧畜を主とし山地に住み勇猛、テイ族は農耕を主とし平野に住み温順という相違もあり、また両者は伝統的に仲が悪いのです。
テイ族の苻堅が羌族の姚襄を殺し、姚萇(姚襄の弟)が苻堅を殺し、これに従来の仲の悪さが加わって、テイ族前秦と羌族後秦は不倶戴天の仇敵となり血で血を洗う民族戦争に突入していきます。
その死闘の最中に後秦の姚萇が病死し、後を継ぐのが姚興。大変な時に継いだわけですけれども、姚興は父の死を隠したまま前秦軍と奮戦して大ダメージを与え、前秦にとどめを刺します。
姚興には子供が11人いました。多い? いやいやいや。姚興の祖父の姚弋仲なんて子供42人、吐谷渾に至っては子供60人だ! 恐れ入ったか。
で、姚興の11人の子供達。長男の泓(おう)が皇太子に立てられますが、彼はとても優しく穏やかな性格でした。ついでに病弱。外に出るより、室内で詩を詠んだり文章を書いたりするのが好きでした。
余談ですが、姚泓には夏侯稚という学友がいます。これはやっぱり沛の夏侯氏か? 夏侯太妃(=東晋元帝の母、夏侯湛の姉妹)の関係で、夏侯氏は東晋に行ったと思うんだけど……彼だけ何かわけありで亡命してきたのか、一部華北に残った者もいるのか。よくわかりません。
本題に戻って、病弱な文学少年の姚泓。それも個性っちゃ個性ですけど、十六国の混乱期に一国の主としてやっていけるかといえば大いに疑問なわけで、父親の姚興も『泓は将家の子ではない』と言って何だか不満げ。
だからか長男であるにもかかわらず長い間太子に立てられず、皇太子になっても今一つ信頼されません。姚興はかえって果敢な性格の姚弼を可愛がるようになります。
こうなったらもう例によって例のごとく、姚泓派と姚弼派に分裂して後継者争いが勃発します。その点、後秦も多聞に漏れなかったわけですが、姚興が生きているうちから後継者争いを始めたところが、他国と一線を画しております。悪い意味で。
姚弼は造反を繰り返し、一度目は姚興が許し、二度目は姚泓が「私が頼りないばかりに兄弟仲良くできなかった」とひどく悔やむので、姚興もそれ以上咎めなかったと。いいやつだなぁ、姚泓。
しかし二度あることは三度ある。姚興が病に罹ってしまいます。意識があったりなかったりという重体です。お見舞いにきた姚興の妹が声をかけますが、たまたま意識の無かった姚興は呼びかけにも答えません。
「へんじがない ただのしかばねのようだ」と妹は早とちりしてしまい、姚興死去の噂は姚弼派の耳にも届きます。姚泓が正式に即位したら手出しできなくなる、やるなら今だー! と、姚弼派は王宮へ攻め込みます。近衛軍は懸命に防戦します。
やがて意識を回復した姚興は、姚弼派が反乱したと聞いて怒り心頭、最後の体力を振り絞って王宮へ出向きます。死んだと思われていた姚興が実は生きていた! というので近衛軍は勇気百倍、反乱軍を撃退しました。
姚興はその場で姚弼に死を賜り、しかし姚興もまた力尽きました。享年五十一。
姚泓が後を継いだのですが、やはり彼には荷が重かったようです。姚氏をまとめることができずに内紛を招き、さらに外からは北魏、夏、東晋といった強国から集中攻撃を受けます。
最後は東晋の劉裕に都・長安を落とされ、姚泓は一族百余人とともに劉裕に降伏します。劉裕は彼らを皆殺し、姚泓は建康へ送られ棄市に処されます。在位わずかに二年、享年三十。好きな文学に没頭できればこんなことには。。
その後、夏が東晋を撃退して長安を分捕ります。後秦の滅亡を機に、華北では北魏と夏が争い、華南では劉裕が東晋を倒して宋を建てます。
こうしてみると、姚興も後秦滅亡の一因を作っている気がしなくもありません。変に贔屓しなければ。後継者はこれ、ってさっさと決めてしまえば。
『見栄を重んじ実利を軽んじた』という姚興の評も、このへんに原因がありそうです。文化の発展に貢献したとはいえ、国の寿命を縮めたということでしょう。
評を見てみますと、だいたい姚弋仲・姚襄は誉められ、姚興がプラスマイナスゼロ、姚萇と姚泓はけなされております。
姚泓は亡国の主ゆえに仕方ないとして、姚萇が嫌われてるなぁ。旧主(=苻堅)の墓を暴き遺体を棘巻きにして棄てた酷い奴だとか。西燕軍を利用しただけの狡い奴だとか。言われ放題です。事実っちゃ事実ですが、ここまで悪く言われてるとちょっと庇いたくなります。
